武道教育と無意識 第10回

人間の脳は、大きく分けて古い脳と新しい脳に分かれています。最も古い脳幹部では、自立神経が司る血圧のコントロールや、内臓のコントロール、涙、唾液などの分泌、泌尿器、生殖器のコントロール、また、内分泌系が司る成長ホルモン(成長を促進、血糖値を上昇)や、性腺刺激ホルモン(男らしさ、女らしさを作る)、副腎皮質刺激ホルモン(血糖値を上昇、ストレスを受けたときストレス解消のために働く)などを担当し私達の生命活動を成り立たせています。

この脳は、爬虫類にも存在していて、実は脳は進化の過程の中で、立て増し構造になっています。古い脳の二階の部分に当たる大脳辺縁系は、偏桃体・海馬・帯状界などの部分から成り立っています。大脳辺縁系の役割は、喜怒哀楽を担当していて、人間はこの古い脳を持ち合わせて、この世に生を受けます。

人間をコンピュータに例えると、前記した事柄がすでに入力された状態で生まれてくる訳です。人間を人間たらしめている大脳新皮質は、他の生物に比べて人間だけが大きな発達が認められる脳で、前号でも記しましたが、およそ400万年前に2本の足で歩くことを皮切りに、身体面の人としての特徴の獲得の後で、最後に爆発的な進化を遂げた脳です。

この脳の役割は、理性や創造性、情報の最終的なインプットなど、人間に特有の精神活動を果たしている部分で、経験や学習によって発達するため、生まれた時には、ほとんど存在しません。そのために生まれたばかりの赤ちゃんは、衝動的にのみ行動します。フロイトはこのような新生児に見られるような衝動を、エス(イド・原我)と名付けました。また、大脳新皮質が発達する過程で、形成されると考える自我(意識)など、フロイトが仮定した心の構造が、1990年以降、飛躍的に発展した大脳生理学に合致していることを鑑みると、フロイトの観察力の高さに今更ながら驚きを感じます。

 

さて、人は成長の過程の中で、最初に入力が行なわれている感情等を、どのような形で発達させていくのでしょう。

乳児は生後2ヶ月位になると、特に楽しいことがなくても笑みを浮かべるようになり、この時期の笑みを新生児微笑といいます。

先程も記しましたが、喜怒哀楽は最初から入力された情報の1つなので、赤ちゃんは特に楽しいことがなくても笑みを浮かべるようになります。その赤ちゃんの可愛らしい笑みを見て、思わず母親が笑みを返したり、抱き上げたりすることにより、赤ちゃんにとっては自分以外の他者との、身体的コミュニケーションが始まります。また、母親にとっても、そうしたコミュニケーションが自らの古い脳に眠る母性本能を目覚めさせ、それが発達することになります。

このような新生児微笑は、人間以外の高等動物であり、群れをつくるサルにも確認されています。古い脳に貯えられた情報(入力済みの情報)が出力されるとき、生物の場合、身体的な運動(笑みという顔の表情も1つの運動)を伴います。その互いの身体的運動(コミュニケーション)が、入力済みの感情をより高度で複雑なものに発達させていきます。言い換えれば人は、原因(元々入力されている情報)に対して、要因(身体的コミュニケーション、学習、経験、環境等)が加わることにより、心を紡いでいくのです。

しかしながら、前記した通り、赤ちゃんは楽しいことがあって笑みを浮かべているのではありません。つまり、感情が伴った後に笑顔を見せるのではないのです。笑顔という身体的な運動をコミュニケーションとして繰り返すことにより、笑顔に徐々に感情が伴っていくのです。読者のみなさんにも、このような例を知ることで、感性の正しい発達は身体的なコミュニケーションから始まると理解して頂けると思います。

人間の心の出入力は、実は全て身体的運動(動作・様式)が伴います。読者のみなさん、こうした事柄を鑑みて、どう感じますか。戦後の教育のあり方は、身体を忘れていたと思わざるを得ません。特にしつけの段階では、例えば食事の前に「いただきます」という気持ちが芽生えてから言えばよいというものではありません。「いただきます」という動作と言語を繰り返すことにより、徐々に育っていくのです。

群れをつくる(社会)動物は、群れの中でその動物特有の礼儀を学び、群れの中で生きるすべを学んでいきます。それゆえに、人間に育てられた社会性の動物は、野生に帰ることが難しくなるのです。

私たち社会は、自覚できる感情や想念(意識)のみを心全体としてきた錯覚から、今だ脱け出てはいません。しつこいようですが、心という小宇宙の一部が意識なのであって、意識は決して心全体ではありません。

前号でも記しましたが、無意識の存在を理解し、そのような認識を持つことが、身体の重要性に気付くことにつながるのだと私は考えています。人の心の発達を促す脳の出入力は、全て運動が伴うことを思えば、幼児期の教育の原点は正に、形として礼を覚えることの中にあるのです。身体の伴わない知識は、感性を表現するための材料に過ぎません。また、知識は一人歩きする危険性を持っていて、伝統という言葉に置き換えられ、文化や身体を形骸化させることすらあります。真の伝統性とは、もちろんそのようなものではありません。

 

私たち禅道会が、何故バーリトゥード空手を標榜し、格闘の現実性(武)を追及しているのか、その理由については、すでにこのコラムにて前記した部分もありますが、団体としての理由づけとしましては、武道の伝統性を真に取り戻すという意味もあるのです。

私たちは、格闘の現実性を追及することによって、従来の競技空手がただの観念だけでしかなく、実際には有効性のないものと思われていた丹田や呼吸法などの身体的、体系的アプローチから始まる武道の伝統的な概念が、実に有効なものであることに気付かされたのです。

私たちにとっては、そのための重要な要因となる競技の方法が総合格闘技だったのです。人の古い脳には、自然な動作を望み、備わった機能をフルに使うことを快感とする「機能快」という性質があります。私は競技の方法を意識でいじり過ぎることは、身体や脳の現実にそぐわないと考えています。また、競技が存在しない、もしくは競技を軽視し過ぎな伝統武道と称する身体的体系についても懐疑的に感じています。

私は、その方面の歴史に特に詳しくないので確かなことは言えませんが、伝承された伝統的な動作とは、いつどのようにして伝承されたのか、疑問に感じます。空手のルーツは、中国から沖縄に渡ってきたと言われておりますが、そうであれば、古流とは全て中国拳法に帰するはずなのですが、どこからが古流でどこからが現代空手なのでしょう。伝統的な流派の空手でも様々に分派していることを考えてみましても、正統古流とは、何をもって正統古流と判断するのか私にはあまり関心のあることではありませんが、疑問に感じます。

また、武道的見地からしても、江戸時代の歩行方法と現代の歩行方法を比べる等の書籍を目にしたこともありますが、生活様式の違いにおいて(着物か洋服かなど)一時的に多少の歩行法の違いがあったとしても、骨盤を中心とする骨格のあり方に、直立二足歩行の大原則としての違いが認められなければ、大した意味は感じとれません。

私たち人類は、400万年かけて歩くという動作を行ってきました。その歴史のほんの一齣にスポットを当てて動きの合理性を語り、文化としての武道を語るのはいかがなものでしょう。

 

私たち禅道会は、教育性の向上と武道性の向上は、正比例すると考えています。そのための要因的必要条件が、武を追及する競技ルールであるととらえています。本質論からすると、競技ルールはあくまで要因であって、根本的な原因ではありませんが、幼児笑みを浮かべても笑みを返してくれる他者の存在がなかった幼児が成長できるでしょうか。

私は、現代武道は一つ一つの形や動きに対して抽象的な概念を振り回すのみで、説明責任を果たしてこなかったと考えています。

原因と要因は、相互関係により成り立っていることを思えば、その関係が明らかでない武道では、青少年や社会に向けて到底説明責任を果たせるとは思えません。

私たち禅道会は、私の知る限り、空手界において団体として唯一格闘の現実性、バーリトゥードという流れに向かい合ってきました。私は、格闘の現実性を直視し、現実と向き合うことでこそ意味が身体を離れることなく身体を通して意味を知り、命と向き合い次代を担う青少年に、真の教育がなせると信じています。

 

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小沢 隆 首席師範

禅道会 小沢隆 首席師範

東海大学在学時代にフルコンタクト空手を習い始め、84年に大道塾に入門。飯田支部長を経て、99年に禅道会を設立。

  • 空手道禅道会 首席師範
  • NPO法人日本武道総合格闘技連盟 理事長
  • ディヤーナ国際学園 学園長
  • NPO法人文化教育活動支援協会 名誉会員
  • 空手を安全に収得できる稽古体系の確立に対し「大衆ノーベル賞」とも言われる東久邇宮記念賞を受賞
  • これまでの武道教育の経験をまとめた「無意識の教育」を出版
  • 武道と格闘技の根本的な違いを明確化した「武道の心理学入門」を出版

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